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「掛軸 荒井寛方」
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掛軸 荒井寛方

荒井寛方 鬼子母

明治の掛軸画家、荒井寛方(あらいかんぽう)1878年8月15日生まれです。本名は寛十郎。院展同人です。栃木県塩谷群氏家町に、紋所や提灯の上絵を描く家に長男として生まれます。父親の藤吉は素雲と号していて、瀧和亭に師事して南画を学んでいました。明治32年に瀧和亭の勧めで水野年方に入門し、歴史画・風俗画を学びます。翌年、年方から「寛方」の号を与えられ、同門の四天王の一人と称されるようになります。明治34年に第10回日本絵画協会共進会に出品した作品は風俗画である「温和」。、二等褒状を受け、その後も同会で受賞を重ねていきます。翌年35年国華社へ入社し、同社出版であった古美術雑誌「国華」で掲載する木製の複製図版用に、仏模写の仕事を通じて画家として鍛練を積みました。大正5年にタゴールに招かれてインドに渡り、アジャンタ壁画を模写します。インドは仏教が生まれた国。その後の彼は仏教的な思想に基づいた作品を制作し始めます。インド的な絵画の代表的な画家として、院展を中心に発表していきます。また彼は当麻寺天井画の制作、法隆寺金銅壁画の模写、竹生島弁天壁画の制作事業にも参加しました。荒井寛方の代表作としては「鬼子母」があります。鬼子母は本来、子供を捕まえて食べてしまうという鬼でしたが、悲しむ人間の母親達を見たお釈迦様が鬼子母の1000人居る中の一番可愛がっていた末子を隠すと、鬼子母は半狂乱になり我が子を探し回りお釈迦様のもとに行きました。鬼子母の末子を抱いたお釈迦様が静かに鬼子母を諭し、鬼子母は心を入れ替えて安産や子育ての神になったという話の絵です。鬼子母は左手に子供を、そして右手に吉祥果のザクロを持っていて、それは実が多くその意味からも子授けや子孫繁栄の意味があります。3メートル近くもある大きな絵と迫力はただただ圧巻です。そして、鬼子母の口元には鬼であった頃の名残である牙がびっしりと生えています。とても考えさせられるスケールの大きな作品です。

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